前回までのあらすじ
中東某国の英語教室に通い始めた暮山。
最初はカルチャーショックに衝撃を受け、ものも言わずヘラヘラ笑いを顔に貼り付けることしかできなかったものの、徐々にその環境に慣れ、楽しく勉強することができていた。
クラスメイトたちとも少しずつコミュニケーションが取れるようになる中、暮山はある事実に気がつく。
クラスで誰よりも英会話ができない自分が、実は人より正確な英語を理解している…。
自分なりの分析の結果、典型的な日本人である自分の考え方は多国籍なこの教室ではごく少数派であること、また、クラスメイトたちは自分とは全くちがう考え方に沿って行動していたことを発見する暮山。
表面的なものの見方をしていたせいで、自分の英語スキルを実力以下と思い込んでいたことに初めて気づいたのであった。
(「英語と暮山編」の初回記事はこちら→ 英語と暮山① )
(前回の記事はこちら→ 英語と暮山③ )
暮山、観察する
自分自身の分析結果をもって改めてクラスを見回してみる暮山。
注意深く聞いていると、堂々と、そしてペラペラと英語で話すクラスメイトの発言には、文法・単語・発音の間違いがよく見られます。
また、クラスメイトたちは、しばしば積極的に先生に質問をします。
みんなの質問は様々で、
あ、それは暮山も疑問に思ってた!
というものもあれば
そこについてはもう暮山は十分わかってるなぁ。
というものもあります。
みんなの態度に常に共通していることは
人前で間違えたり、うまく話せないことを
- 怖がらない
- 恥ずかしがらない
- いちいち気にせず次々と話す
こんなことを言ったり聞いたりしたら他の人にどう思われるか、なんて全く気にしていなさそう
という2点でした。
(実際、誰が間違えようと、どんな発言をしようと、みんな一向に気にしていない様子でした。)
暮山、考える
それまでの暮山にとって、人の目にどう映るか・人にどう思われるか、というのは行動を決める大きな要素のひとつでした。
本当は暮山だって
アタシは人がどう思おうと、そんなの気にしないわ。
(女優の桃井かおりさん風に)
…なんて、大きめのサングラスをかけながら言っちゃうようなカッコイイ女性になりたいのです。
(注:桃井かおりさんのくだりは完全に暮山の勝手なイメージです。
桃井さんが実際にこういったことをおっしゃったのか、また、本当に大きめのサングラスを愛用されているのかどうかについては存じ上げません…。)
しかし実際には、人の目を気にせずにふるまうというのは、日本社会で生きる日本人にとっては相当難しいことであり、ある意味常に戦わなければいけない道をあえて選択する、ということにつながると思うのです。
人の目を気にせずにふるまうということは、人に笑われたりおかしいと思われたりするリスクをはらんでいます。
その結果、最悪の場合はコミュニティを構成する多数から拒絶されてしまい、その中では生きて行けなくなってしまうこともあると思います。
そんなことになるよりは、事前に人目を気にしてそれを避けておいたほうが得策と考えるのが自然です。
結果として大多数の日本人が人目を気にして行動するようになるのは当然だと思います。
日本人の美徳である礼儀正しさや真面目さがそこから生まれているという面もあるでしょう。
(注:日本以外の国ではみんな人目を気にせず生きているのかというと、そんなことはないだろうと思います。
やはり人間同士ですから、多かれ少なかれどこの国の人も周りの人の目を意識して生きているのでしょう。
日本がその傾向がかなり高い方なのでは、という比較の問題です。)
しかし今、こんなにも自分と異なる価値観で堂々とふるまうクラスメイトたちを見て、暮山は初めて言葉だけではなく心から、人の目をそこまで気にしなくて良いんじゃないかと思えたのです。
暮山はやはり日本人ですから、発言するべきタイミングや内容については今まで通り大切にしたいのです。
小学校の時に教わった授業中のルールも、守らなくても良いけどやっぱり守ったほうが良いと思います。
礼儀正しく規則を守って行動することは、他の人と一緒に生活していく上で大切にするべきことだと思うからです。
一方で、こんな風にも考えました。
「こんなことを言ったり聞いたりしたらほかの人にどう思われるかな」
なんて気にせず、もっと自由に、クラスメイトたちのように自分の思ったことは言って良いんだ。
英語ができないから勉強しているのだから、間違ってしまうことをそんなに怖がったり恥ずかしがったりしなくても良いじゃないか。
英語教室の門を叩いてから3ヶ月ほど経とうかというときでした。
暑い暑い中東某国の夏はすぐそこまで来ています。
(「英語と暮山編」のおまけが続きます→ 英語と暮山〜おまけ〜 )
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